セイコーの書体デザインの源流
そもそもセイコーのウオッチデザイナーの前身はダイヤルの版下職人や外装設計者でした。現在ウオッチデザイナーと呼ばれているような職種は、1956年に「生産部意匠係」として組織化した際の「意匠担当」に源流があります。それが国内初のウオッチデザイナーであったようです。
1900年から1950年代頃までのウオッチのケースは、スタンダードな2本かんのシンプルなデザインがほとんどでした。ムーブメントが定型だったためケースの構造・形状には差が少なく、バンドも店頭でユーザーが好きなストラップやブレスレットに付け替えることが多く、正規品には重きを置いていませんでした。だから必然的に、当時のデザイナーの仕事の多くは「ダイヤルデザイン」だったのです。
そんな歴史的背景もあり、セイコーのウオッチデザイナーには、ダイヤルへのこだわりがDNAとして受け継がれているのかもしれません。そこで今回は「違和感なく自然に見える」という目的のための、細部の「知られざる」技について、具体例を挙げながら詳しく見ていきたいと思います。
「見やすい文字」の、ヒミツの仕掛け
ウオッチの文字を見ていく前に、まずはブランドの顔となるSEIKOロゴを例に見てみましょう。Sの文字に注目してみると、文字の角が鋭く飛び出しているのがわかります。この部分を社内では「ヒゲ」と呼び、この処理を施すことで小さい文字でもくっきりと印刷できる効果があります。
また、縦線と曲線の境目に切れ込みのようなものが入っていることも確認できます。これは社内では「ヌスミ」といい、この処理を施すことで文字の角にキリッとした印象を与えることができます。
これらの技は数字にも用いられており、例えばドレッシーなウオッチによくみられるローマ数字には、よりエレガントな印象を持たせるねらいも込め、やや強めにヒゲをつけたりもします。たとえば、このルキアのローマ数字は「万年筆で書いたような」手書きの雰囲気を持たせるために、筆の運びの方向を意識して強めのヒゲをつけているのです。
そして、じつはローマ数字に見られる「X」の文字。この文字にも、おそらくふつうは気づくことのない仕掛けが施されています。その仕掛けは、クロスしている部分にあります。この「X」は細い線と太い線の交差でできているため、じつはそのままだと人間の視覚の特性上、ややズレているように見えてしまいます。そのズレを計算し、細い線が一直線に見えるような処理を施しているのです。ふつうに生活している中でこの仕掛けに気づくことはほぼ不可能でしょう。
オリジナル書体がデザインされたルキア(SSVW180)。斜線の交差する部分をわずかにずらした補正をしているため、線は違和感なくまっすぐに見える。
「ふつうに見える」の、タネあかし
次に、文字の配置について見ていきましょう。ふつうに見えるということは、つまり「違和感がない」ということ。それをクリアする上で意識しなければならないのは、なんと言っても数字を12の分割の中に心地良く配置すること。ウオッチデザイナーは特に、円の形状と戦っていると言っても過言ではありません。
ここではアラビア数字のウオッチを例に見ていきます。やや間違い探し的ですが、若手デザイナーが最初に作成したレンダリングと、先輩デザイナーと共に更にそれをブラッシュアップし、最終的に商品化されたものを見比べてみてください。より心地良くアラビア数字が配置されていると思いませんか?違和感なくふつうに見える裏に、デザイナーの並々ならぬ努力と経験の積み重ねが隠れていることがわかりますね。
ベテランデザイナーの助言により、わずかな違いであっても明らかに配置が整っていることがわかる。
また、回転ベゼルの表示板に配置されたアラビア数字にも仕掛けが施されています。このアラビア数字を取り出して、そのまま正体(せいたい)にしてみます。すると、2つの数字同士がやや外側に傾いていることがわかります。これも人間の目の錯覚で、アラビア数字を円周上にそのまま置くと、やや内側に、ハの字のように傾いて見えてしまうのです。その補正処理も、ふつうに見えるための欠かせないポイントのひとつなのです。
わずかな数字の傾きを施しバランスのよい配置のプロスペックス(SBDC181)。お手持ちのウオッチを観察してみると、そこにも補正のテクニックが施されているかもしれない。
「そこまでやるか」な、錯視補正
せっかくですので、最後に「そこまでやるか」な錯視補正の例を見ていきましょう。ひとつ前に紹介した文字の配置は、ふつうに見えるための「なくてはならない」処理です。一方、最初に紹介した「ヒゲ」や「ヌスミ」は、より見やすくするための、いわばデザイナーのこだわりとも言えます。それが顕著に現れている例がグランドセイコーのモデルにあります。
このSBGC244を見てみると、ダイヤル上のアラビア数字だけでなく、ベゼル上の数字にもヒゲがついていることがわかります。さらには、ダイヤルリングの目盛り一つひとつにもヒゲをつけてあるこだわりよう。実際の商品を見るとその効果はかすかに感じられる程度ですが、ここにはグランドセイコーのクロノグラフらしい、研ぎ澄まされた佇まい、精緻感が表現されています。「最高のふつう」を体現する、グランドセイコーの使命感のようなものが感じられます。
使命感といえば、計測器としてのウオッチを追求した、プロスペックス SPEEDTIMERシリーズにも強い使命を感じます。SEIKOの文字にはしっかりとヒゲ、ヌスミが施され、数字や秒目盛りは最適な距離感とボリュームを考えられた配置になっています。また目盛りには細かな「線」だけでなく「点」も採用。記録を正確に計測するために、視認性と判読性をできる限り高めています。正確さが求められるプロスペックスだからこその「そこまでやるか」。というより、この場合「そこまでやるべし」なのかもしれません。
ウオッチデザイナーの研鑽はつづく
このような「ふつうに見えること」の裏に隠されたさまざまな仕掛けは、これまでのセイコーの歴史の積み重ねによって磨かれてきました。その中には、ルール化・定石化されているものもありますが、それをさらに進化させ、ウオッチデザインの可能性を広げるために、デザイナーは日々腕を磨き続けています。
若手デザイナーはもちろん、長年勤めているベテランのデザイナーでさえ、ウオッチをデザインする中で日々新しい学びや発見があります。デザインの進化に終わりはありません。それがデザイナーの試練であり、また醍醐味でもあるのです。